見えないものに気付く力を鍛えていくと
喜怒哀楽といった「感情」を誰かに伝えようとするとき、表情豊かに、そして身振り手振りを添えて言葉にすることが得意ではない。
話すことが苦手でもなく、何を伝えていいのか分からない感覚でもないのだ。「伝えたい」「聞いてほしい」という感情が薄かったのかもしれない。あまり考えずに、思ったことを口にして、考えが浅い奴だと思われることを恐れているのかもしれない。それらは、幼少期の体験が原因だと見立てる人もいるだろう。
スーパーで買い物をしていると、店長さんから従業員さんへ向けて
「私たちには、全く落ち度がないことですから、お客様からご意見を頂いても決して謝らないようにしてください」
という声がした。もちろん話の詳細まではわからない。
従業員さんは、機械的に
「はい。わかりました」
と答えているようだった。
もちろん、この状況へ解釈は、置かれている立場や経験などによって異なるものだろう。
他には言えない特別な事情があるかもしれない。常時ではなく今回が初めてのことかもしれない。
私も含めて、普段は意識していない、自分が大切にしている何かに触れたとき、
全体でなく、切り取られた一部分だけを捉えてセンサーのように反応し、
「正しい」「間違っている」「悲しい」「不安」「安心」「感謝」などと判断してしまうことがある。
それらの感情は、勝手に自分のところにやってくるのではなく、
みずからの過去の経験や出来事と照らし合わせながらが選択している。
見えないものは、記録に残らない。存在していても、周囲の人からは観察することができない。
プラスの感情、マイナスの感情のどちらにしても、何かを大切にし、自分の感情に注目しているからこそ変化に気付くことができる。
そこには、大切なものが存在している。